昭和46年06月24日 朝の御理解



 御理解 第55節
 「賃を取ってする仕事は、若い時には頼んでもくれるが、年をとっては頼んでくれぬ。信心は、年が寄るほど位がつくものじゃ。信心をすれば一年一年ありがとうなってくる。」

 ここ二三日特にそう思うのですけれどね、お互い信心をさせて頂いて、信心の徳を身に受けて一年一年有難うなって行っておる自分というものを、はっきり見極められるだけの信心をさして貰わなければならん。只信心をしておる只金光様の御信心を頂いておるだけでは有難うならない。どこまでも真の信心を目指さなければできない。若い時にはもうどげな修行でもさせて貰って、おかげを受けたというても。
 成程神様にどんな無理でもいえれる信心、ところが年を取ってくると段々そういう修行も出来なくなって来る。若い時にはお参りもしっかり出来たし、表行も充分した。そうして神様にお縋りをしておかげを受けた。あぁいう時にはあぁ言う修行しておかげを受けた。そうゆう修行が何十年続いて参っても、さあもう水被ることは出来ない、断食する事は尚更出来ない。お参りしょうと思っても体の方が言う事を聞かない様になってお参りも出来ないといった様な、そういう信心ではつまりませんですよね。
 ほんと私がもう少し若かならば、頑張りに頑張っていっちょおかげ頂くばってんと言った様な事をよくお年寄りの方から聞きます。もう昔のごたる若い時の様な信心は出来ん。そういう信心をしておるからつまらんのです。私はお道の信奉者の中にはそういう人が随分多いと思うですね。神様でも矢張りここでは賃を取ってする仕事とこうおっしゃっているですね。段々年を取ってくると頼みてがなくなって来る。もう力も無いし言わばボトボトする様になって来るから、もう人が相手にしなくなって来る。
 私は神様でもそうだと思うですね。真の信心をはずしての信心、只一生懸命に拝んだとかお参りをしたとか、火の行、水の行をした。そういう信心が二十年経ち三十年経ちして自分が段々年を取って来る様になって来るとです、どう言う事になってくるか、今の様になって来る。私がもちっと若いなら、ひと修行させてもろうてどうでもこうでもお願いするけども、こういう言葉はよくお年寄りから聞く言葉ですね。もう年を取ったからそういう事も出来ん動きが出来ないと、この神様とはそういう神様だろうか。
 それこそ自分の体を痛めてでも、火の行、水の行をしてでも、断食をしたりしてでも願わなければ、おかげを頂けない神様ではない。自分の一心をそういう表行に表わして、そしておかげを受ける。成程おかげは受けるけれども、そのおかげは若い時だけでしょう。年を取って来ると表行が出来んので、おかげを受けられんと言う事になってくるのです。何故か、結局真の信心を目指してないからです。真の信心をさせて頂きゃ第一、一年一年有難うなって来るというのである。
 自分の信心が真の信心を欠いでおることは、それは若い時は今申しますようにそれこそ人の真似の出来ん様な修行もしょうと思えば出来る。成程神様は動いても下さる。けれども年を取って来るとそげな訳にはいかん。いわゆる一年一年有難うなって来るという信心を身に付けていないからです。一年一年有難うなって来ると云うのは、真の信心を目指す以外にはありません。信心は年を取る程位がつくものじゃ。だからここでいう信心というものは真心、信ずる心、神心、そういう信心を仰っとられるのです。
 神様にそれこそ元気に任せてです、ばりばりと仕事が出来る。そういう時に仕事が出来るから、人に百円出す時には、仕事が出来るから百二十円も出してから雇いもすると同じ道理で、信心もそういう一つの若さにものを言わして、おかげを受けるという時代が続いたのであっては決して年が寄ってくる程に位がつくと云う事はない。年を取る程に位がつくものじゃと、果たしてお互い一年一年有難うなって行っておるであろうか。位がついて行っておるであろうか。
 本気でここんところ私どもがね、こうして若さを持っておる時、本気でそこん所を取組ませて頂かなければもう取り返しがつきません。年がよる程位がつく。位がつくとどういう事になるかと云うと、皆から大事にされる、尊ばれる。その位に対して皆が頭を下げる。位がついて来ればついて来る程、神様が大事にして下さる。そういう信心をね、一つ本気でさせて貰わねばいけません。そこでそれなら私どもが真の信心をさせて頂いておると、どう言う事になって来るかというと。
 「腹立てば心の鏡のくもること」と御神誡にございます。若い時にはよう腹が立ちよったけれども、段々おかげを頂いて腹が立たん様になる。腹が立たん様になったと言う事は、それとは反対に段々有難うなって来たと言う事なんです。果たしてそういうおかげを頂いとるであろうかと。一寸した事からイライラする。一寸した事が腹が立つ。次には又次の御神誡に、「わが心の角でわが身を打つこと」とわが心の角でわが身を打つ、所謂「信心する人の真の信心なきこと」とこういう。
 信心をするものは沢山有るけれども、真の信心をするものが少ない。信心をするけど真の信心が無い。神様もいよいよ信じて疑わない生活。それを安心の生活という信心である。そこで自分の心から思うこと感じる事がです、真心になる。そういう自分の心の状態がです、一年一年有難うなって来るという中には、そう言う事になって来る。わが心でわが身を打つこともなくなって来るし、イライラもやもやも少なくなって来るし第一腹を立てんで済むようなおかげを頂かれる様になる。
 信心は年が寄る程位が付く。私は位が付いていくと言う事は、本当に自分が有難うなっていく事なんですけれども、腹が立たんで済む様になり、わが心の角で、わが身を打つといった様な事がなくなって来ると言う事、それがはっきりして来る事だと私は思う。おかげを受けられて、それこそ一年一年有難うなって行く信心を頂きたいもの。つらつら自分というものを考えてみる。又は自分一家というものを思うてみる。本当にめぐりの深い自分を知る。自分の家のめぐりの深さを感じます。
 それでなくてもこの世にめぐりの深い自分であるから、それでなくてもこれ程めぐり深い家であるから、これ以上にめぐりを作り、めぐりを重ねてはならんという思いが出来てこなくちゃいけません。めぐりにめぐりを重ねる様な事があってはならん。これはめぐりの自覚に立つ。めぐりのお取り払いを頂くという事もさることながら、これ以上めぐりを作ってはならんというその二つの線が出てこなければならん。めぐりのお取り払いを頂くに従って、自分の身が軽うなる。喜びが倍加して来る。
 これ程信心しよるのに、これ程真の信心を目指さして頂いておるのに有難くなれない、おかげが受けられないという時にですね、いよいよそのめぐりの深さを一つ悟らして貰わねばいけません。そして本気でめぐりのお取り払い、又はではなくてもこれ程のめぐりの深い自分、家である事を分らして貰うて、これ以上めぐりを積んではならないという気持ちにならにゃ、そこに信心させて頂くものの姿勢というかね。
 いわゆる段々位がついてくると言う位を頂いて行く事の基礎と言った様なものが出来るのじゃないでしょうかね。本当に自分の身のめぐり、自分の家のめぐりと言った様なものは考えた事もない。ですから矢張りめぐりを積んで行く。昨日、鳥栖の上野はつみさんの所のですけれども初孫が出来た。息子の子が安産のおかげを頂いたというてお礼に出て見えて、お名前頂きたいという。そこで神様にお願いさせて頂いたら、竹を頂いた。松竹の竹です。ですから、私は竹夫と上野竹夫とお名前を頂いた。
 どうぞ子供が竹のお知らせは素直という事ですから、子供が素直な心になるようにという親が子供に対して素直であってくれと願はぬ親はありません。どうぞすくすくと素直に育ってくれと願っておる。だから竹夫という名を頂いたから素直になるというのではない。その為に本気で親が素直になれという御理解。例えば自分の家は何かこう素直でない人が右と言えば左という。そういうめぐりが有るという自覚に立たせて頂いて、こういうめぐりを子供に残しちゃならんと思うところから。
 親はどうぞ素直になる様にと、まあ素直な名前を付ける。そういう様な事でです、例えばその子供が素直になる事は絶対にない。親が子にかける願い、例えば私が長女の名前をつけさせて貰う時に豊美とつけた。豊かに美しい。これは親の願いである。だから親がそう願っておるから豊かに美しうなるかというと、そんな事はない。本当に子供に豊かに美しいおかげを頂かせて頂く為には、親自身が豊かになり美しくならなければならんという意味なんです。
 竹夫というどうぞ子供が素直に育つようにという親の願い、その願いを持つならば私自身親自身がです、素直にならして頂く精進をするより他にない。私はねめぐりが軽うなるとかお取り払いを頂くとかはね、そういう事だと思う。自分の子供を見ると、本当にめぐりと云うものをはっきり子供たちの姿の中から見る事が出来る。ですから只それを見ておるだけじゃない。それこそ本当に親の合わせ鏡の様なもんだと子供はいわれておりますけれども、それを見て良いところは良いところであるが。
 欠点が見えてきたならばです、そういう欠点を親自身が改まっていく。そういうめぐりを残したくないならば、矢張り親自身がそのめぐりのお取り払いに本気にならなければいけない。或る近頃はもう参って見えませんけどね、或る親御さんが学校から子供の事で呼びが来た。行ってみた所が最近頻々として盗難の事、子供の金やら物が無くなる。それでそれを段々調べた所がお宅の子供さんである事が分ったと、もう矢張り血の引く血の気が引く様な思いがしたち、それを聞いた時、何故ちいうて親自身にその気があった。
 あぁ恐ろしかほんなこて、自分のね一番怖れておる事が、子供にちゃんと移っておる。だから自分のときにはそれは平気なものじゃった。こすっ気があったり一寸、自分でも打ち明けてのお届けでしたがね。私は他所の家の中に入って金を取ってきたりどうしたりはせん。けれどもちょいとしたものがそこにあったりするとそれはもう黙って持って帰って来るちいうくらいな盗癖ですね。ところが子供が人の金にでも手をかけると聞いてびっくりした。それから改めて本当にお願いをされました。
 そこで本気でそこを改めさせて頂いて、おかげで子供もおかげ頂きましたがね。自分自身にこれは盗癖のある者にじゃないかと言う痣が消えてなくなったのですからね、一年後に、矢張りこの人相の中にはね、ここに痣のある人は小さいお店のママになるなんて唄がありますがね、ここに痣のある人はどういう運命、此処に痣のある人はどう言う事をする人と言った様なことが大体分ってるそうです。ある易者からね、ここに痣のある人は盗癖があるといわれた時にああほんとと思うたことがあるそうです。
 けれども子供がいよいよ学校に呼ばれてね、学校から呼ばれてあんたんところの子供がこういう事だと聞いた時に、それこそ親としては血の気の引く思いがした。もう子供を折檻する気にども出来る事じゃなか。これは神様にお縋りする他はないとして、私が改まりますからとして改まる。ところが子供は勿論段々おかげ頂いて参りましたが、自分自身の顔に盗癖の痣という痣が無くなった。
 私は子供達の姿の中から、あぁ是はめぐりだな、是は家のめぐりだというのがはっきり出て参りますのを見たらね、親がその位の気持ちで改まっていかなければいけないと思いますね。これはどうしても一年一年有難うなって行く為には、先ずそこが出来なければいけません。そうしていよいよ信ずる心真心神心を身につけて行く。是はもう絶対こういう生き方は、真の信心だといっております様に、いわゆるいよいよ成り行きを大切にしていく生き方、そういう生き方が出来る所から必ず私は位がついてくると思う。
 位がついてくると言う事は、一年一年有難うなってくるとこれは。年がついて来るほどにおかげが頂けてくる訳であります。「さあ」自分のめぐりなんかはいっちょも考えることもない只我武者羅に参ったり、拝んだり修行をしたりり火の行水の行をしたり、只自分が改まると言う所に一つも目標を置かずに只拝む、成程それでもおかげは受ける。一生懸命お参りをしてお取り次を願ってお願いすれば、おかげを受ける。
 けれども段々年を取って来るともうあげな若い時にした修行は出来ん、お参りは出来んという様な事になってくる時、信心をしておっても淋しい事になって来る。金光様の信心を頂いておる皆が皆位がつく程のおかげを頂いとるとは思われない。一年一年有難うなっておるとは思われない。有難うなろうと思うてもそれこそめぐりが有難いものを吸収してしまう。だから確かに有難くなろうと思うとるけれども有難くなれんのは、めぐりがそれを吸収しておることを悟らして貰って、本気でめぐりの解消。
 めぐりの取り払われて行く事の有難い事を分らせて貰って、そこに焦点をおいて信心をさせて貰わにゃいけん。その上に段々真の信心、これが真の信心とはっきり例えばここで云うておることは、成り行きを大切にしていけと言う事。最近、昨夜も私申しました様に、一切合切が有難くおかげとして受けていくと言う事。そこに一年一年有難うなっていく信心が生まれてくる。そういう信心の種を播かせて頂く。心の状態がめぐりの改まり、めぐりのお取り払いを頂く事の為の信心。
 が出来ないと例え良い種を播いてもそうしためぐりの雑草が吸収してしまう事になる。本気でです私どもが自分の家のめぐり自分の身のめぐりというものを思うた時、それこそ今申しました例の人じゃないけれど血の気の引く様な思いをもって、めぐりの姿が見えれるおかげを頂かなければいけません。そこから本気でこの事だけはという改まりが出来る。それを子供に残しちゃならんだけではない、そのめぐりが有難いものを吸収してしまう。有難くなる稽古をしよっても、めぐりが吸収してしまう。
 今日は賃をとってと言う事は、若い時は一生懸命参ってたり修行したりする事が出来る。だからそういう信心であっては駄目だと、そういう信心で頂くおかげと言うものは、もう年を取ったらそういう修行は出来なくなって来る。出来なくなって来るともうおかげは頂けなくなって来る。一つ本気で早く、そこんところに気付かせて頂いて一年一年位がついて来る、一年一年有難うなって来る、年が寄る程に位がついて来る。それを自分の心の中に感じ取らせて頂けるくらいな信心をさせて頂きたいと思いますね。
   どうぞ。